浜田太 エッセイ集

その11 放浪の唄者

戦前戦後、奄美諸島から沖縄本島の村々や街角で竪琴やサンシンを弾きながら島唄を唄う盲目の唄者の姿を記憶の1ページに留めている方は多いと思う。
彼は、幼くして視力を失い祖父からサンシンと島唄で生きていくことを授けられたという。
彼こそ、その生涯を奄美諸島から沖縄の路上を舞台に唄い続けた放浪の唄者里国隆である。

彼を初めて見たのは、昭和45、6年の私が高校時代だった。
名瀬の中心街に銀座通りがある。
その近くに永田橋市場(マチグワァー)が軒を並べていた。

下校時その市場を通って帰るのが日課だった。
その橋のたもとで昼間から竪琴を弾きながら島唄を唄っていた盲目の唄者が里国隆だったのである。

当時は高度成長期の真っ只中、巷にはフォークソングやグループサウンズの曲が溢れ、島唄など古い遅れていると、どんどん奄美らしさが失われていった時代でもあった。
彼はこの頃「乞食の国隆」と呼ばれ蔑んで見られていたのである。

私も島唄の良さ等わからず「今日も乞食の国隆が物乞いのため唄っている」と思って見たものだった。
都会生活に憧れ奄美を出てUターンするまで彼の事はすっかり忘れていた。

奄美のことが少しずつ分かりかけて来た'96年1枚のCDが発売になった。
タイトルが「あがれゆぬはる加那」で唄者里国隆とあった。
早速聞いてみた。
地面から湧き上がるようなうめき声のその唄は、私の耳の奥深くに入り込み全身へ、血流のごとくしみこんできた。

彼の唄を聞きながらあの高校時代を振返ってみた。
フォークソングを聞きジョーン・バエズやブラザーズフォー等の曲を必死に覚えたあの頃。
島唄等に目もくれずただただ都会への憧れだけで日々を過ごしていた自分。
血の中に流れ込むような感動を受けるだけの自分になっていなかった。

あれから30年余の歳月が流れ、多くの挫折や喜びを経験してきた今ようやく島唄の良さが分かりかけて来た。

島唄とはそんなものかもしれない。

琉球新報社 落穂 2002.掲載