浜田太 エッセイ集

その12 テレビを見ない

先月、奄美大島名瀬市内の公立保育園の研究会で、講演をする機会があった。
講演の前に、各保育園の取り組みが報告され、保育士の皆さんが日々試行錯誤しながら保育をしている事がよく分かった。

家庭ではテレビ任せの保育が多い中、野外に子供達を連れ出して身近な自然や地域文化に触れさせたり、地域に根ざした保育に取り組んでいる園が増えてきたことはすばらしいことだと思った。
中でも、保育園に一切テレビを置かないで、絵本や民話などの読み聞かせを保育の中心に据えたある園の取り組みが報告された。

日頃からテレビの有り方に疑問を感じ、言葉の大切さを痛感している一人として興味深く聞いた。
感受性が強く無限の可能性を秘めた幼児期の、まだ脳が取捨選択をできない時に、テレビから湯水の如く流される情報を見せる事に疑問を感じていたからだ。

最近のテレビから流れてくる子供向け番組は、アニメーションとはいえ破壊や殺人などがいとも簡単にできるように表現されていて、子供達の脳にいい影響を与えていると思えない。

かつて日本が貧しかったころ、地方は3世代同居が当たり前だった。
おじいちゃんやお婆ちゃんが孫の子守りをし、孫達に自分が子供の頃に教わった昔話やおとぎ話、身近な自然の中の生き物達から生命の大切さやそこでの遊び道具の作り方、遊び方などを五感に触れさせながら伝えてきた。

それは、貧しいながらも、身近にあるものをどう活かしていくかを考える訓練にもなっていたように思われる。
また言葉は体で感じた思いを伝える表現手段。
特に、方言は個性とアイディンティティを育てる上で最大の役割を果していた。

この園の取り組みは、一人一人の個性を育てるすばらしいものだと思った。
子供の遊びも商業主義の中に組み込まれてしまい、遊びも金で買うことができるようになり、創る喜びや達成感を味わえなくなってきている。

今こそ言葉、特に方言の大切さに気付くべきだと思ったのだった。

琉球新報社 落穂 2002.掲載